さわやかな朝を迎えて、今日プレゼンテーションを行うに際し、いろんなことが頭の中をめぐっています。いわゆる新しいことを考えているのですが、東洋思想をそのまま勉強しても、「それって何?」の疑問が湧いてきます。なぜ勉強するのか?目的は何?ということです。
「徳」とは元々その人に備わっているもの、ということなので何も努力することとは連動していません。一所懸命勉強することではないのです。
まず、大和言葉で「考える」とは、「神がえる」ことであり、素直に神様に「お伺い」を立てることを言います。決して、自分で思いめぐらせるのではなく、神のお告げを聞く心の状態になること意味します。次に、「あらわれる」という大和言葉の意味は、「素直な心をむき出しにすること」です。そうしないと神の言葉が降りてこないということですj。「あらわれる」という大和言葉には、漢字で書くと「現れる」「洗われる」「表れる」「顕われる」という感じ表現になります。大和言葉で「あらわれる」という言葉に意味は「心を包んでいる邪心を洗い、むき出しにすることで、本当の心が現れ、顕われ、表れて、表にでると、場合によると荒々しい心が出てくることになるけれど、それでやっと素直な心がむき出しになり神との交信が可能になる状態」を意味するものと考えられます。つまり「みそぎ」によって垢を落とし、素直自分にを表に出すことなので、それほど難しいことではないのです。
「徳」は元々備わっているので「素直な自分」に気が付けばよいというということです。